昭和49年07月01日 月次祭
信心をして十二分のおかげを頂こうと思えば、ままよという心を皆様に聞いて頂きたい。儘よという心は、死んでもままよの事ぞと、こういう信心から、いわゆる神様が願って御座る、神願成就のおかげが私共氏子の上に現わされるので御座います。十二分のおかげを受けようと思えば、ままよという心を出さねば、おかげは受けられません。ままよとは死んでもままよ。
そういう信心から生まれて来るのが、天地の親神様の所謂信者氏子に掛けて下さる願いが成就するというのは、ただ私共が願えが成就すると言った様な意味で受け取ったら、全然違う。皆さんもお気付きでしょうけれども、この一日の月次祭には必ず見事なお鏡様がお供えになるでしょう。実に見事ですねやっぱ正面からこうやって見ると。是は久留米のご信者さんで、もう二十数年信心はお父さんの時代からなさっています。しかもお父さんが亡くなられましたから、息子さんがお商売の跡を継いで。
やっぱりお月次祭だけには必ず何日も前から注文をしてあるらしい。そして今日もそうでしたけれどもお参りをなされた。それで「昨日の大祓式にはお参り出来なかったんですか。」「いや、紙は頂いとったけれども、もうこんな事せんでも家はおかげ頂く。」ちゅう訳です。自動車も何台もあるし、おかげで一時は店をたたんならんだろうかと言った様な時代も御座いましたけれども、御神意のままにおかげを頂いて、段々繁昌の道を辿っておるので御座います。
もう是では何十年間、一日のお月次祭だけには、もう絶対にお鏡様をお供えしてあります。ですからもう思い込んでありますね。合楽の金光様に。そして見えてからでもね、拝むのもあまりなさらない、お話しも勿論頂きなさらん、まあたまにはお母さんが付いて来る時がありますから、お母さんがお話しを聞いて行かれる事がありますけれども、息子さんが一人でお参りになる時はそんな風です。だから私も強いてお役に立ちません。ですから、そう言う一つの事がなし続けられると言う事は素晴らしい事です。
ですからそういう意味においても、そういう信心の節度を持っておられますから、神様がきちっと節度を付けた、その程度のおかげではあるけれども、切れ間がなくおかげは下さる。是は矢張りおかげの世界。けれども、信心をして私共の願いとする所はです、矢張り神様の願いが成就なると仰せられます。神の願いが私共一人一人の上に成就すると言う事。それは私共が儘よという心で信心をしなければ、十二分なおかげは受けられない。十二分なおかげというのは、私共の願い通りと言う事です。
昨日三十日の夜は、月末御礼会が御祈念がありまして、その後この広前を借りて神話発表会を致しました。所謂神様の前で今月一月の間のおかげを受けた色々なおかげ話を皆さんが、五分、十分しなさる訳です。所がもうちょっと遅くなりましたけど五、六人の方が発表されました。その中に安東のお父さんが発表しておられましたけれども、「しんごうろっぽ」の信心を話しておられました。
神様の奉祭をしたり、それから改式のおかげを頂かしてもろうたり、麗々しゅうお座敷に綺麗にお祭りも出来て、暇さえあれば御神前に行って夫婦のものが座っておるごとある。御祈念も何か楽しゅうなって来た。そしてこの頃から念を入れた御祈念をさせて頂いておる内に、段々気付かせてもろうておる事は、私の願いというのは、本に自分の事自分一家の事、自分家の工場の事だけしか願いよらん事に気が付いた。こんな事でええのだろうかと最近悩み出したという。私は申しました。
「そこに気付かせて頂いたと言う事が、もうおかげの進歩ですよ。実をいうと段々進歩させて頂いて、言うならば十二分なおかげ、思う通りのおかげと言うおかげが、先月は十二分のおかげのお話しで、今月初めて、言うなら思う様なおかげになったと言われる、だからそれを愈々始めて行くと言う事なのです。おかげを受けると言う事、そこから例えば自分だけの事でない。
神様の心を心として神様が願いとされる願いを、私共が願いとする様な信心が出来て、そのことが朝から晩まで願わなければおられない、頼まれなくてはおられないと言う様に成って来るところから本当の信心が頂けて来る様になるのです。今日は一斉に夏の信行が始まります。ここでも一時という時間に、ここ合楽に参りましてからの恒例になります、以前は五十日でしたけれどもここ二、三年は御本部でも一ヶ月と言う事になりましたから三十日間ですね。
一時からもうそれこそ異様なまでの雰囲気、先程若先生がここでお話しを頂いておりました様に、それこそ一時十四、五分前位になりますと、もう合楽に押しかけて来る様な勢いなんです。もうそれだけでも感動するというて話しておりましたように、そしてここ一杯の方達が、若先生の先唱にもに、それこそもう内聞も外聞もない、一生懸命に生神金光大神様と称える。村内から村中に響き渡る。ですからもう昼寝の時間に困ると言われる位に賑やかにやる訳です。
この頃ではおかげ頂きましたけれどもね。言うならば朝の御祈念には皆ここ一杯あります。昼の御祈念信行にもここ一杯あります。そしてまた夜こうしてお月次祭ともなると、またここ一杯になります。言うならば大半の方が朝の御祈念にも参った方達、または昼の信行にも参った方達、また夜の御祈念にもまたこうしてお参りをされるという方達が大半だと思うんですけれども、言うならばもし信心の薄い人なら、合楽参りにかかっとらんならんじゃないかと言う事になる。けれどもここです信心は。
もうそれこそ本当言うたら、信心に掛かってしまえばね、神様が私共の生業には掛かって下さるのです。此処ん所が十二分のおかげといいます。それは信心は程々にしなければと言うのですけれども、だから程々では矢張り程々のおかげであります。信心に掛かってしまえば神様が掛かって下さる、それを十二分のおかげ。そういう信心はやはり儘よと言う様な心を出さなければ出来る事ではありません。
今日は皆さんもお気付きでしたでしょうけど、今日は東さんがある事情でお参りが出来ない。どう言う事情か知らんけれども、神様の事情が大事ばいと言いたかったんですけれどもね。この様な所が愈々私の独壇場になる所です。普通ならそれでも良いと言う事なんですけれども、私自身がそれで通って来ておりますから、そして私自身が今日こんな問題を頂いておりますから、私の信心を伝える事になると人間の事情よりか神様の事情が本当ぞ、人間を中心にするよりも神様を中心にしたが本当ぞと言う事になるのです。
言うならば今日の昼の御理解がそうでした。信心をする者は肉眼をおいて心眼を開けと仰る、心眼を開くと言う事そこに私共の十二分の世界というか、おかげがあるのです。肉眼をもってする所では、人間の考えを中心として信心をするのが、肉眼的信心と言う事になります。人間が中心になる自分の事が中心と言う事になります。神様が中心になると言う事になりますと、そこには有難い勿体無いという、信心の世界が展開してくる。言うならば、心眼が開けて来る心の眼が開けて来る。
今まで難儀なことだと思うておった事が、素晴らしい神様の働き、として分かる様になる。腹が立って涙が流れるごたるのが、有難た涙に変わって来る、と言う様な世界なのですから。肉眼の世界から心眼の世界を見直して頂いたら、そういう例えば、ならおかげを頂く為には、皆さんの場合には、大変苦しい。私がそういう時に有難いと言わんばかりににこにこしておる。自分は大変情けなくてたまらん、苦しくてたまらん。けれども私は心眼をもって見るからおかげとしている。
この人は肉眼をもって見ているから、その事が情けない事だと見えておる事だけの事なんです。そこん所に一つ私は我情我欲を本気で捨てさせて貰うて、神様を中心にした所の信心。そこには所謂、儘よという心が生まれなければならない。ここで自分が外したら誰からどう思われりゃせんだろうかと言った様な事では、何処までも人間を中心にした誰かが何と思おうが、そこに例えその為に損がいこうが、神様が中心にした生き方そういう生き方は、所謂儘よという生き方でなからなければ出来る事ではない。
昔、おーりょこう節という歌が流行りました、朝鮮と支那の境のね。その替え歌にね、「極楽と地獄の境もあの感じだろ、名指すおじ氏は良けれども極楽ほんにほだされて極楽の世界につきかねるチョンチョン」という歌。最近ここで言われる、本当に合楽の世界をお互いの家庭に、合楽の世界がそのまま極楽の世界だ。所謂和賀心の世界だ。そこには人間の幸せの条件になる全ての物が集まって来るんだ。第一貧乏が無くなる病気が無くなる、争いが無くなるという世界が開けて来るのだ。
それが合楽を自分の家庭に現わすのだ。それを自分の周囲に現わして行くという信心が盛んに言われております。そういう世界を顕現して行く為には、どうでも一つ十二分のおかげを頂く為には、どうしても儘よという心を出さして貰わなければなりません。儘よとは、死んでも儘よと言う事だと教祖は教えておられます。私共が極楽と地獄のあいなかを言うならば行たり来たりしておる。
神様は御慈悲がは無くても流れておるんだけれども、結局は欲悪煩悩にほだされて、極楽世界にとうとう着きかねて一生信心が終わったんでは相済まない事です。今日私は東さんの今お取次をさせて頂いておりましたら、私は少し残念でした。もうあれ程分かってしかも、此の人がまだ楽の事でそのー欠いた事が無いのです。それに今日たったそん暗いの用事で欠くと言う事は、実に残念と私は思うた。
これは本当に欠いたと言う事は簡単の様な事の様ですけどね、勿論お取次を頂いて、お詫びをしてからのそうですから、それは何でもないごとあるけれども、極楽世界へ行く道すがらに取っては大変な、それは矢張り神様が言わば残念に思われる事です。だから信心というのはね、こうと思うた事はやり続ける。二十年間例えば久留米のこの方が、月のうち一回だけであるけれども、言うならばお鏡さんだけは絶対私が。もうそれは行き届いておる、是が途中で出来なくなった事がある。
そしたらあっちこっち回ってお餅が出来る所を訪ね求めれて、そしてやっぱりこのお鏡だけはお供えなされ続けた。ですから思い込んである。私は大祓いをして貰わんでも自動車でもおかげを頂いていると、人間もおかげを頂いて健康で、商売もおかげで繁昌している。だから、合楽の金光様はその位のおかげは下さいます。氏子の一遇一念というのが届くならです。だからいうならば、死田五田の信心が一番いかん。
絶対おかげに繋がらん。ですから、本当にそういう信心を育てて行くと言う事になりますとです、ぎりぎり例えばなら東さんの場合なんかは、二十数年の信心ですから、分かって分かりきっとるはずですけれども、なら今日は人間の方へ傾いた。折角神様がこの男だけはもう、こちらの方と思うておられるとこに、透かされた様な感じをなさる所を、神様が残念に思われるのではなかろうか。私が残念だと思うて。
その事をお届けさせて貰よったら、芸術の芸を頂いた。草冠に云うという字が書いてありましょう。是はどう言う事かというと御前がね、例えば残念と思うならそれだけお前が修業をして神に縋ってやれと神様が言われた。それを主人が言うて聞かせるという、そこの所を私自身のおかげという、いうならば妙なるというか、もう何とも神様のお働きには恐れ入ってしまうなあというおかげが現れて来ると言う事なのです。
あの黙って治めると言う事はそういう素晴らしい事なんです。日頃の体験を合楽の極楽と言われるならばです。その神の手になる技と言う物は、それこそ妙なるもの、それこそ美の追求と言うかね、芸術の芸、その素晴らしい神様の妙なる働きが始まるんだと、私共の上にも様々な事がありますよね。子供達の上やら、言わば見るに見兼ねる、ようするに言わなにゃおられん、色んな事に、見るに見かねる。そう言う時にも神様にお縋りさせて頂く。主人がちゃんと言うて聞かせて下さる。
こっちが言うて聞かせんでも、本当主人が言うて聞かせて下さる事の素晴らしさと言う物が、こっから見といても本当に素晴らしい。神様のお働きとは、成程言わんでもいいなあ、歯がゆい思いをせんでもいいなあと言う事になるんです。私は本当に手前味噌ではないけれども、さすがに合楽だなあと思わせて貰ます。今日一日朝の御祈念にやっぱここに来た、昼の御祈念にも成程ここ一杯、そしてもう晩な良かろうでなくやっぱり、ここに一派い成る様にお参りなっておられる。言うならば信心にかかっておられる。
この事が私は我情我欲を離れて、そう言う事がなされておる所から言うならば、欲悪本能にくらされて渡る事の出来ない極楽世界に到達するという生き方は、そういう生き方から生まれて来るんだと言う風に思います。今日は皆さんに十二分のおかげと言う事を、今ここで言われておる合楽の世界、または極楽のおかげと言う風に聞いて下さいました。十二分のおかげというのは、それこそ月に一回でも良い、一途な思いを持ってお鏡さんのお供えを続けるならば、事故にも合わん病気もせん。
おかげで商売も繁昌しておるという位の、おかげなら受けられると言う事。是はあの世まで続けると云う訳には行きません。私共の心の中に所謂信心の喜びを愈々募って来るおかげがです、信心に言わばかかっておられる様なおかげを頂かせてもらう、言うならば信心に掛かっておられるおかげを頂く時に、神様がまた私共に一人一人の上に掛かってお育てを下さる。掛かっておかげを下さる。そこに合楽のおかげ。
いうならば極楽のおかげ、または真善美の足ろうたおかげと言う事になって来ると言う事を今日は聞いて頂いた。ですから始めからそれがなされるとい雨事は難しいです。だからまず十分な信心と言う所は頂いて頂きたい。それは銘々の信心によってでありますから、十分な信心から次に十二分な信心が出来る。十二分なおかげというのは、おかげ以上のおかげというのです。それはお徳を頂く世界と言う事です。本当に合楽をここに現わすという世界。神様がそういう心の状態に。
もう人間のいうならばおかげとそのおかげの総てを復元して下さる世界です。そういう世界を見合わせてもらわねばならぬ。それには安東のお父さんじゃないけれども、合楽の話を聞きよると四月、五月、六月という信心の段階をおうてお話しになりましたが、もうそれこそあなたの場合は、月勝りに信心が進んでおられるとが目に見える様な感じが致しますねと言うてお話しした事ですけれども。そういう進め方そういうお育て方を頂かして貰わなければならない。いうなればせめて昨年よりも今年と言う様な。
おかげが信心が進んで行かなければならない。何時まで経っても只お日参りが出来ておりますと言うだけではいけない。何時まで経ってもお月次祭さえだけは欠かした事はないと言う事ではいけません。何時までたってもならお鏡さんを一生お供え続けた所でです、やはりそれはおかげだけの世界であります。そこからお互い折角御教えを頂くのでありますから愈々ちょっとは難しいですけれども、是が日頃頂く教えであろうかと思わせて頂いて、そこを乗り切って行く所のおかげ、信心を身に付けて頂きたく思います。
どうぞ。